Information - Note

[ Note ] 鶴橋のもつ鍋屋と、静かな自由

用があって、大阪鶴橋を訪れました。
これまでほとんど足を運んだことのない街。土地勘もまったくありません。すこし時間をつぶさないといけなくなったので、あてもなく歩いていると、高架下に明かりの灯ったもつ鍋屋を見つけます。

ガラス越しに店内を覗くと、アルコールを片手に、もつ鍋を囲みながら、(おそらく)とりとめのない話に花を咲かせている人たち。まだオープン間もない時間帯だというのに、店はすでに賑わっています。
ちょうど日が落ちはじめ、冬らしいしっかりとした寒さを感じはじめた頃合い。自身の嗅覚を信じ、半ば吸い込まれるように、店の中へ入りました。

あつあつのもつ鍋に、マッコリを少々。ぷりぷりとした新鮮なホルモンに、鶴橋の商店街で仕入れたであろう本場の韓国キムチ。どんどん箸が進みます。最後に、老舗の製麺所から仕入れたというこだわりの中華麺を鍋に投入。あっという間に鍋が空っぽに。思いがけず、心も体も満たされる時間となりました。

事前に飲食店の評価サイトで調べ、評判の店を選ぶという方法も、もちろんありました。すこし検索すれば、もっと評価の高い店はあったのでしょう。けれど、この「思いがけず、いい店に出会えた」という感覚は、そうした選択からは、なかなか得られません。

誰かの言葉や評価に寄りかからず、自身の直感と判断に従ってみること。たとえその選択が「最良」でも「正解」でもなかったとしても、そこから得られるのは、思ったより豊かなものなのかもしれません。

自分の感覚で立つことはすこし心許なくもあり、同時に、静かな自由でもあるのだと思います。

-

じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

(『倚りかからず』茨木のり子)

[ Note ] 金木犀の香りは誰のもの?

金木犀の香りを見つける頃になると、折坂悠太の言葉を思い出します。

秋になると、SNSで『金木犀の香り』という言葉が目につく。書き手の情緒がクイックに再生される反面、現実にそれを嗅いだとき、自分のなかに湧き起こる実感が形骸化される。(中略)これらの表現に共通するのは、それを語る人の主体が隠される点である。自分のなかからでてきた言葉に確信が持てず、共感のツールで潰してしまうのだ(折坂悠太『藪IN』より)

誰しも「秋を感じる瞬間」があります。
風の冷たさ、夕暮れの色、空気の匂い──それらが自身のなかでふと結びつき、「ああ、秋だ」という感覚が立ち上がる。その感覚は他の誰かと共有できなくても、確かに自分自身の中に息づく秋のかたちです。

一方で、“誰しもが秋を感じるであろう”景色や香りがあります。その代表格が、金木犀の香りでしょう。この言葉(記号)を使えば、手軽に「秋の訪れ」をみんなと共有できる。けれどその便利さの裏で、「私」が感じた秋のかたちは、言葉の奥に隠れてしまう。彼が指摘する「隠された主体」とは、まさにこのことなのだと思います。

誰もが発信者になれる時代に、なぜか「主体」は後退していく。AIが整えた言葉や再生数を意識したトレンドのフレーズが画面を覆い、届け手の実感から少しずつ遠のいていく。いま私たちは「誰の言葉なのか」が見えづらい世界に生きています。

みながみな金木犀の香りで秋を感じる必要はありません。それぞれの中にある“実感を伴った秋”が大切にされる世の中であってほしい。「主体性の回復」には「多様性の受容」が不可欠だからです。cobacoというブランドも、その小さな多様性を肯定する場所でありたいと常々思っています。

そしてこうも思うのです。
理屈ではなく、誰かの身体を通って生まれた言葉は、たとえ小さくても確かな体温を帯びている。そうした言葉と出会うとき、私たちは他者の中にある「主体」と静かに触れ合うことができるのだと思うのです。それは、言葉に限らず、人が生み出すあらゆる作品に通底していることかもしれません。

ふと、星野源の『くだらないの中に』という楽曲の一節が思い出されます。

首筋の匂いがパンのよう すごいなあって讃えあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる

「首筋の匂いがパンのよう」と思ったことはないのに、その比喩がすっと身体に入ってくる。そして、その情景に人の幸せがつまっているように感じられるのです(少なくとも私にとっては)。彼の言葉には確かな“体温”があり、聴く者の心にじんわりと響きます。

届く言葉、届く作品とは、「この感覚をわかるのは私だけかもしれない」と思わせながらも、多くの人の心に触れるものなのかもしれません。

[ Note ] 忘れる人、忘れられる人

「今日はあなたが電話をかけてきてくれるまで、誰とも会わず、一度も言葉を発しなかったの。家の庭木たちは、私に話しかけてはくれないのよ。」

初期の認知症の兆しが見えはじめた頃、祖母が電話口でそう言いました。祖父が亡くなり、長年連れ添った犬も逝ってしまってから、祖母は静かな家にひとりで暮らしていました。両親は頻繁に通っていましたが、それでも、圧倒的な「独りの時間」が彼女を包みこんでいたのです。

人は家族や社会とのつながりを失うと、自分の存在する意味を少しずつ見失ってしまうのかもしれない。そして、身体はその痛みを生理的に回避しようとする。あるいは、心が「望んで」記憶を薄めていくのかもしれない。電話越しの祖母の声に耳を傾けながら、私はそんなことを考えていました。

そしてこの夏。両親とともに墓参りに出かけた日のことです。一日中一緒にいた父が、一度も私の名前を呼ばなかったのです。誰かに話しかけるとき、いつも相手の名前を枕詞のように添えるのが常だった父が、です。

現役時代よりひと回りもふた回りも小さくなったその背中に、私は祖母の姿を重ね合わせていました。ついに来たか——。どこかで覚悟していたはずの現実が、いざ目の前に立ち現れると、身体にまとわりついてくるようなどんよりとした重苦しさを覚え、なんとも暗澹たる気分になります。

高度経済成長のただなかを駆け抜け、仕事に人生を捧げてきた典型的な「団塊の世代」の父。退職後もしばらく働いていましたが、数年前、勤務中の転倒で足腰を悪くしてからは一線を退き、家にこもる時間が増えました。その頃からでしょうか。会話の端々に、かすかな違和感を覚えるようになったのは。

他者(父)がこれまで築いてきた記憶や時間が、少しずつ削り取られていく寂しさ。その過程をそばで追体験する痛みなのか。あるいは、実の親に“忘れられていく”私自身の悲しみなのか。いまはまだ整理がつきません。

それでも、記憶が薄れていくことは、寂しさであると同時に、やさしさでもあるのかもしれません。忘れることでしか耐えられない孤独が、きっとあるのだと思います。ただ、その名を呼びかける声は、どうか最後まで届いてほしいとも願うのです。

[ Note ] 養殖のわたし

いい人でいる努力をしてきた。いい人のふりをし続けられれば、それは「いい人」と変わらないから──彼女はなかば自分自身に言い聞かせるように心の中でつぶやく。ある漫画の中で印象に残った1コマです。

そこには、“天然”と“養殖”の対比がありました。“天然”の「いい人」は取り繕いなく自然体で人に接し、その存在だけで周囲を和ませる。それを目の当たりにした“養殖”の彼女は、自分の不器用さと偽物くささに痛みを覚えます。どれほど努力を重ねても“天然”の清らかさには届かない気がして、胸の奥がちくりと疼くのです。

けれど、彼女は最後に気づきます。理想の自分がどれだけ遠く感じられても、その理想へ向かって一歩ずつ進んできた事実に変わりはないことを。日々手を動かし続けるからこそ「なろうとする自分」に価値が生まれる。努力の質などは問わず、ましてや才能の有無などはまったく問題ではありません。長い時間積み重ねた圧倒的な量こそが、人をかたちづくるからです。

小さな試行錯誤の積み重ね。その一つひとつが、無数の水滴となってやがて大海をなすように、”わたし”という存在を“養殖”以上のものに育ててくれる。やがて、その蓄積が“養殖”の殻を破り、自身の個性となり、生き様の陰影となっていきます。

もちろん、“天然”の輝きはまぶしいです。けれど、純粋さも作為も、どちらも人間らしさの現れ。そこに至るまでの道のり──選択と試行錯誤の果てにこそ、その人だけの物語が立ち現れるはず。“養殖”のわたしは、漫画のなかで出会った彼女の気づきに何だか救われたような気持ちになりました。

[ Note ] 耳を澄ませば

一年の半分近くを山で過ごし、鳥たちの行動を観察する生活を何年も続けている研究者がいます。彼には鳥たちの言葉が"わかる"のだといいます。長い年月、鳥の鳴き声に耳を傾け続けるうちに培われた身体感覚によるものなのでしょう。

いつか読んだインディアンの血が流れる男の子の物語をふと思い出しました。チェロキー族の祖父母に引き取られた少年は、深い森で暮らすうちに木々の呼吸や動物の心を感じ取れるようになっていく──言葉に頼らず世界と対話する感覚が、いつしかその身に宿る。研究者の静かな確信にも、同じ「身体化された理解」が宿っているように思えます。

身体ひとつで森へ分け入り、双眼鏡と小型レコーダーというごくありふれた道具だけを頼りに、鳥の視点を自身の身体を通して“翻訳”していく。何千時間という膨大な時間を重ねるうち、鳥の鳴き声に「単語」と「文」があること、語順を入れ替えると意味まで変わることを彼は突き止めます。言語は人間固有の能力だとするこれまでの"常識"を揺るがす、驚きの発見です。

最先端の技術や道具を用いるわけでもなく、この身一つで研究を重ね、世界的な常識を塗り替える成果へと至る──彼の活動姿勢に触れると、「情報が洪水のようにあふれる時代にまだ誰も手を付けていないアイデアなんて存在するのか」という不安が、ふっと剥がれ落ちます。まだ名の付けられていない価値は、手の届く半径に潜んでいる。そんな希望が芽生えるのです。

[ Note ] ChatGPTと五感の復権

横断歩道で信号が青に変わるのを待っていたときのこと。私の前を横切った70代くらいの女性4人組の1人が「いまからChatGPTに聞いてみるわ」と言いながらスマートフォンを取り出しました。他の3人も「せやせや、ちょっと聞いてみて」と軽やかな口ぶり。そのやりとりがあまりにも澱みなく自然だったことに、静かに衝撃を受けました。そこまで浸透してきているのかと。

彼女らの会話を耳にして、スマートフォンが世の中に登場した当時のことを思い出しました。電車に乗り込む度にスマートフォンを眺めている人の割合が増えていったあの時と同じように、また世の中の景色が変わるタイミングがやってきたのだと感じたのです。

それから数日後、行きつけのヘアサロンでスタイリストの方が「僕、いまめっちゃ歩きたいんですよね」と興奮気味に語り出しました。きっかけは、ソールが薄く足裏の感覚を取り戻せる“ベアフットシューズ”を履いて歩くベアフットウォーキング。裸足のように地面を感じながら歩くことで、足本来の筋肉が目覚め、姿勢も呼吸も整う――そんな身体感覚の再発見が、いま静かな広がりを見せているそうです。

AI が文章を整え、経路を提案し、時には話し相手にもなってくれる日常――便利さの裏で、私たちは「触れる・嗅ぐ・聴く・味わう・見る」という五感を、少しずつスクリーンの向こうに預けてきたのかもしれません。だからこそ、足裏に伝わる地面の温度、頬に当たる風の軌跡、遠くの鳥の声といった微細な刺激が、かけがえのない体験として戻ってきているように感じます。

人間にしかできないこと、味わえないことって何だろう。AIという”人間らしく振る舞う何か”が現れたことで、哲学者が対象とするような壮大な問いが多くの人の関心事になってくる時代がやってくるのかもしれません。最後に、ChatGPTに「人間だけが味わえるものは何か」と尋ねてみました。

ChatGPTの回答:
「AI がいくら賢くなっても、恋をして胸が高鳴ったり、怖い映画を観て手に汗をかいたりすることはできない。人間が当事者として感じ、悩み、語り合う“生きた物語”はなくならないはずだよ。むしろ AI がルーチンを担うぶん、私たちはその唯一無二の体験をいっそう大切にできる時代になるんじゃないかな。」

[ Note ] 澱みなく流れ続けること

アトリエ近くを流れる生田川。気が付けば春が過ぎ、川沿いの桜並木もすっかり瑞々しい緑に包まれています。静かに流れる川を眺めていると、時折時間が経つのを忘れて眺め入ってしまうことがあります。その美しさはどこからやってくるのでしょう。

澱みなく静かに流れ続けることで、水は清らかさを保ち、そこに住まう生き物たちを潤す。けれど、流れが滞り、澱みが生じれば、水は少しずつ濁り、生き物たちは姿を消し、やがては不快な匂いさえ漂い始めます。流れ続けること自体が美しさをつくり出しているのかもしれません。

一方、私たち人間の身体のなかでは、日々細胞が真新しく入れ替わっています。数日も経てば、細胞的には別人と言えるくらいに。川も人も「流れ」の中にあるわけです。その流れが澱んだり、せき止められたりすれば、不具合を起こすのも想像に固くありません。

私たちが日々携わるものづくりにおいても、「澱み」にはいつも気を配らせています。変化を恐れ、同じ場所にとどまり続ければ、やがて心や考えは徐々に凝り固まってくる。新しい刺激や価値観が入ってこないままでは、視野は狭まり、感性は鈍り、活力も失われていく。いつの間にか、関わる人たちとの間にも、言いしれぬぎこちなさが漂い始めます。振り返ってみれば、何かがうまくいかないと感じていた時期には、大抵何らかの澱みを抱えていたように思います。

新しいプロジェクトを立ててみる。これまでと違った方向性のデザインを思案してみる。停滞を感じることがあれば、その澱みを解消するために、あえて居心地のよい場所からはみ出してみるよう心がけています。

もちろん、常に動き続けるのは容易なことではありません。疲れてしまったり、少し休みたくなる時だって当然あります。けれど、短い休息と澱みとは本質的に異なるもの。立ち止まることで、進む方向を軌道修正したり、次へと進む力自体を養うこともできるでしょう。ただ、そこに長くとどまっていてはやがて水が濁ってきてしまいます。

変化を恐れず、好奇心を持って日々を新しくしていくこと。小さな一歩でも前へ進もうとすること。そんなことに思い巡らせながら、澱みなく清らかな川の流れに目をやると、そこに意志があるように感じられて不思議な感覚を覚えるのです。

[ Note ] 理性と感性が描きだす風景

もう何年も前のこと。IQが200近くあり、アインシュタインに匹敵する頭脳を持つという少年の日常に密着したテレビ番組を観ました。彼は物理や数学といった学問を探求する一方で、絵を描き、音楽を奏でるなど、クリエイティブな活動にも熱心に取り組んでいました。「科学を突き詰めると、芸術の扉が開く」。彼はそう語っていたのです。

科学を突き詰めると、芸術の扉が開く──彼が語った一言が、いまでも強く印象に残っています。(うろ覚えなので、そのままの言葉だったかは定かではありませんが)一般的には科学と芸術は相容れないものと思われがちだけれど、それらが交わる消失点が確かに存在するのではないか。少年の言葉は、そんな考えを巡らすきっかけになりました。

岡潔、寺田寅彦、中谷宇吉郎──思えば学生時代から、科学者が綴る言葉に惹かれてきました。彼らが語る世界には、私たちが日々目にするありふれた風景に触れながらも、そこには見慣れた景色を超えた、新たな発見と美しさが広がっている。科学者らしく理知的な言葉はどこか詩的で、知らない世界へといざなうものでした。

久方ぶりに書棚から引っ張り出した寺田寅彦の随筆集には、奇しくも「科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか」と書かれていました。

物理学者でありながら、芸術や文学にも深い関心を抱いていた寺田。彼にとって科学とは数式の羅列ではなく、自然の美を探求する営みでした。研究対象であった物理現象は、科学的に分析されると同時に、その美しさやリズムに心を打たれるものだったのです。

中谷宇吉郎が「雪は天から送られた手紙である」と表現したように、科学的な観察が極まると、詩的な世界へと接続される。また、岡潔が数学の研究を通じて「情緒の世界」に至ったように、科学の果てには感性の領域が待っています。

芸術家と科学者。どちらも鋭い観察力と豊かな想像力を要する点において、本質的に似た資質を持っている。そして、その根源には通底する「驚き」や「美への感動」があります。

この視点はものづくりにも通じます。素材を見極め、余分を削ぎ落として美しいバランスを見出すこと。それは単なるデザインではなく、自然の法則を捉える理学的行為であり、仕上がった作品に宿る美しさを直感で見極める力は芸術の本分です。

科学の目と芸術の心が目指すところは、寺田の言葉を借りればまさに“同一な真の半面”。理性と感性が響き合う世界に触れることで、私たちはより深く豊かな世界の姿に気づくことができるのだと思うのです。

[ Note ] 熱を持つものに、人は惹かれる

理系科目の成績はさっぱりだったけれど、学生の頃からなぜか熱力学第二法則には関心がありました。熱は、熱いものから冷たいものへと移動し、その逆は成立しません。熱いコーヒーは時間とともに冷めていくし、混ぜたミルクは元に戻らない。エネルギーは常に高いところから低いところへと流れていく。極めてシンプルでありながら、だからこそ強い説得力を持つ物理法則です。

エネルギーの高いものに、人は集まります。熱源がなければ、動力は発生しません。人の熱意、それによって生み出された作品の持つ力は、周囲へと伝播していく。この法則は、物理の世界だけでなく、人間の営みにも当てはまるように思えました。だからこそ、ずっと頭の片隅に残り続けているのかもしれません。

アーティストやデザイナー、職人、ミュージシャン——ゼロから何かを生み出す人たちは、例外なく「熱」を持っています。それは技術であり、思想であり、あるいは「好き」という純粋な情熱かもしれない。けれど、そこには確かに「エネルギーの高さ」があり、その温度差が人を惹きつけ、動かす力になります。「好きなものや掲げた目標を追いかけ、考え、発信し続ける人」に人は惹かれる。それは、エネルギーが自然と流れ出す構造と同じです。

cobacoというブランドは、「熱」を感じさせる世界観を有しているわけではありませんが、それでも作り手として常に静かな熱を帯びていたいと考えています。そして、私たちのデザインするアイテムが、ただの装飾品ではなく、身につけることでその人自身のエネルギーを引き出す触媒のような存在でありたい。そう願っています。

 

[ Note ] 急がず、待つこと

アトリエでの午前の仕事を終え、ランチを済ませた後、午後の作業に取りかかる前のひととき。一杯のコーヒーを淹れることが日課となっています。

まずは、やかんに水を注ぎ火にかける。お湯が沸くのを待つ合間、コーヒーミルで豆を挽いておきます。ドリッパーにフィルターをセットし、挽きたての豆を静かに移す。沸いたお湯をケトルに移し、ドリッパーの縁から中心に向かってそっとお湯を注ぐと、豊かな香りがふわりと立ち上ります。すこし蒸らした後、またお湯を注いでいきます。急がず、焦らず、ゆっくりと。焦って淹れてしまえば、どうしても苦みが残ります。それを避けるために、時間をかけてじっくりと淹れます。

オンラインで注文した商品は翌日には届いてほしいし、気になったことはすぐに答えが知りたいし、目的地には最短でたどり着きたい。なんでも「速く」「手っ取り早く」が価値を持つ時代です。コーヒーひとつ取ってもできるだけ短い時間で済ませたくなる。けれど、それでは美味しい一杯にありつけません。だから、あえて「手っ取り早く」の誘惑に抗うのです。

ジュエリーのデザインにも通ずるものがあります。気を急いてかたちを決めていくと、どこかぎこちなさが残ってしまうもの。アイデアが浮かんだら、しばらくそのままにして、時間をおいてからもう一度向き合ってみる。それを繰り返しているうちに、少しずつ"かたち”になっていきます。

その昔、書道の先生に「字をきれいに書くコツは何ですか?」と尋ねたことがあります。返ってきた答えは「じっくりと時間をかけて書くこと」。当時は、ただ時間をかければよいのかと、味気なく思いもしました。いまになってようやくその言葉の意味がわかってきたように思います。

急がず、待つこと。
時間をかけることで、物事はより豊かに、深まっていくのだと思います。

[ Note ] 沈黙するノリウツギ

アトリエの入口にあるささやかな植栽スペースに植わっているノリウツギというアジサイ科の植物。初夏を迎える頃、淡い緑の輪郭をまとった白く美しい花弁の群れを咲かせます。夏の間咲き誇った後、徐々に茶色く朽ち、秋口に入る頃には枯れた花は摘み取られ、すべての葉が落ち、枝だけの状態に。翌年の夏まで、巡る季節のほとんどを枯れ木のような姿で過ごすことになります。

底冷えた真冬の朝に水をやっていると、ふと思うのです。もはや枝しか残っていないこのノリウツギは、実はもう枯れてしまっていて、次の夏がやってきても葉も花もつけないのではないだろうかと。

私淑していた哲学者の方が「コミュニケーションというのは、いつも無償のもの(=片方向)だ。帰ってこない(=返ってこない)から、配慮、無償の配慮が存在する」とよくおっしゃっていました。こうして寒さに耐えながら植栽に水やりをしていると、不思議とそのことが腑に落ちます。

毎日のように水をやっていても、仮に水やりをサボったとしても、ノリウツギは何も言ってきません。ただ枝のまま立っているだけ。それでも毎日のように(冬の間はすこし頻度が落ちますが)水をやり続けます。感謝も文句も言わず沈黙を貫いているそれが、次の夏、また葉をつけ美しい花を咲かせるからです。枯れ木の私に水をやり続けてくれてありがとう、と言わんばかりに瑞々しく。

同じことをオンラインストアでの販売にも感じることがあります。お客様の顔が見えないのはもちろん、メールでの連絡もこちらから連絡を差し上げることがほとんど。もちろん、メッセージをくださる方も多くいらっしゃいますが、基本的には沈黙している(反応のない)お客様に向けてご連絡を差し上げ、商品をつくり、お届けしています。

不思議なことにお客様が沈黙していればいるほど、こちらは相手のことを考えずにはいられません。私たちとのやりとりに、商品に、お客様は果たして満足しているのだろうか。こうすればもっと喜んでいただけるのではないだろうか。PCディスプレイのその先でお届けした商品を実際に身に着けていらっしゃるお客様の姿を想像しながら、試行錯誤を重ねています。

時折、「もう何年も肌身離さず身につけています」とおっしゃってくださるお客様にばったりと出会ったりして、胸を撫で下ろすのです。

[ Note ] I love making mistakes

先日購入した雑誌に付いてきた小さなステッカー。「I love making mistakes」のメッセージが目に入り、いつか読んだ音楽家 高木正勝のエッセイ集に綴られたあるエピソードをふと思い出しました。

旅先のエチオピアで行動を共にしたガイドとのやりとりで、どうしても我慢できないことがひとつあったというのです。それは、目にするものひとつひとつに対して「これは何年に建てられた建物で、こういう出来事があって」と逐一説明が入ること。彼は、ガイドの度重なる説明に耳を傾けているうちに、人から与えられた情報ではなく、自分の心と体で感じた真新しい世界の感触をまずは味わってみたいと感じたといいます。つまり、「勘違い」させてほしいと。

「I love making mistakes」というメッセージにも同じような思いが込められているような気がしました(これも勘違いかもしれませんが)。すこしの間違いや勘違いの中に、まだ世の中になかった新しいアイデアの種が潜んでいるかもしれない。ちょっとしたバグが偶然大きな発見につながることだってあるかもしれません。それが正しいかどうかは一旦脇に置いておいて、ひとまず「私はどう感じているのか」に耳を傾けてみる。そこで感じたものを、そこから生まれるものを素直に受け止めて面白がることができるブランドでありたいと私たちも常々思っています。

「I love making mistakes」と書かれた小さなステッカーは、ノートパソコンの隅に居場所を得ました。

[ Note ] 病室の窓から覗く青い海

cobaco

先日、祖母が倒れたとの連絡があり、搬送された病院へ向かいました。海辺に建つ小さな病院を2階に上がった病室の窓からは海が見渡せます。もう9月だというのに夏真っ盛りと言わんばかりに青々とした空にきらきらと青い海。病室から覗くにしてはあまりにも生命力に満ちた風景にふと宮沢賢治の詩を思い出しました。

-

眼にて云ふ


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。

(底本:「宮沢賢治全集2」ちくま文庫、筑摩書房)

-

見舞った祖母は幸い大事には至らず、肌つやもよくかなり快復した様子でした。検査結果も良好ですぐに退院できるとのこと。ひと時病室から覗いた青い海の景色を、またいつか思い出すかもしれません。

[ Note ] 「人の品性」について

Note|cobaco

近頃、「人の品性」について思いを巡らすことが増えました。自身はもちろんcobacoというブランドにおいても「品よく」ありたいと思いながら日々運営しています。

「品性」と言っても、「高貴さ」や「品格溢れる」といった大層なものではなく、どちらかといえば「気持ちのよい立ち居振る舞い」といったニュアンスでしょうか。人と人との関わりにおいて「相手を慮ること」。そのことがコミュニケーションの前提にあると感じられる立ち居振舞いに品性を感じます。

言うは易し、行うは難し。忙しくなると、ついつい心の矢印が自分の方にばかり向いてしまい、誰かとコミュニケーションをとる場面においても、相手(の心境など)に目が行き届かず、雑な振る舞いをしてしまいがちなのですが。

先日、「気持ちのよい立ち居振る舞い」のお手本のような清々しいエッセイに出会いました。彬子女王による留学記『赤と青のガウン』です。4月に文庫化されたのを機に、この頃あらためて話題になっているようです。

留学なされていたオックスフォード大学でのさまざまなエピソードが描かれているのですが、その中心にはいつも人(相手)がいます。いずれのエピソードもたしかに自身にまつわるエピソードなのですが、友人や担当教授、寮の人たち、家族など、目線の先にいつも身近な「相手」がいて、読み手に彼らのキャラクターをしっかりと感じてもらいたいという思いが端々からにじみ出ているのです。まさに「相手を慮ること」が前提にあると感じられるエピソードばかり。忙しくて視野が狭まっていると感じる度に読み返すことになりそうです。

[ Note ] 窓辺に猫

我が家には4匹の猫が暮らしています。

見た目は気品溢れる美人だが、ちょっと気に食わないことがあるとすぐにパンチを繰り出してくる凶暴性を持ち合わせている長女。24時間隙があらば飼い主の膝、脇、腹に乗りかかってこようとする甘えん坊が過ぎる次女。「アイドルグループのセンターこそが私のポジション」と信じて疑わず、可愛さをこれでもかと振りまいてくる(押し付けてくる)自己肯定感の強い陽キャな三女。飼い主の言葉にも耳を傾ける聡いところがある一方、いつもと違うことがあるとすぐにパニックになってしまうビビリな一面もある末っ子長男。

彼らと暮らしていると、努めて個性的であろうとせずとも、皆おのずからユニークな存在なのだと気付かされます。そして、ともに暮す時間が長くなればなるほど、距離が近づけば近づくほど、新しい一面を見せてくれます。先日は末っ子長男が新しい居眠りポーズ(ちょうど阿波おどりのようなアクロバティックなポーズ)を披露してくれました。

そういえば近ごろ、長女がお気に入りの窓辺にいるのをあまり見かけなくなりました。すこし高い位置にあるその窓辺に何度か飛び移ろうとは試みるものの、結局億劫になって諦めてしまっている様子。10歳を超えて脚力に自信がなくなってきたのかもしれません。近々、窓辺の壁にステップを設けようかと考えています。窓辺に彼女がいるいつもの風景がまた戻ってくるように。

[ Note ] クワイエットラグジュアリー

Note|cobaco

近鉄奈良駅から奈良公園の方へと10分ほど歩を進めると、春日大社の本殿へと続く参道のはじまりである一之鳥居が姿を現す。本殿までおよそ1.3kmの道のり。進んでいくほどに参拝客の姿もまばらになり、通り抜ける風は冷ややかになり、静けさが増していく。それだけでも十分に霊性を感じる場なのですが、本殿を一周ぐるっと囲う回廊の東外に位置する「御蓋山浮雲峰遙拝所 (みかさやまうきぐものみねようはいじょ)」で思わず息を呑みます。

回廊の外側だからというだけでは説明のつかない、張り詰めた静謐さがそこにはあったのです。つい先ほどまであたりにいたはずの参拝客の話し声はもちろん、その気配までがすっと消え、まるで街の喧騒の只中でノイズキャンセリングしたような「静けさ」だけが残った不思議な場でした。

聴けば、春日大社の裏山でありかつ「神の山」としてこれまで約1300年に渡り深い信仰の対象となってきた「御蓋山(みかさやま)」へ向けて祈りを捧げる空間となっているのだとか。「禁足地」として原則一般参拝者は立ち入ることが許されない御蓋山に最も近づくことができる場所だと言います。

日々さまざまなノイズに晒されて過ごしているからか、神聖な場で出会った静謐な時間/空間は、非常にラグジュアリーな体験に感じられました。

[ Note ] 「つなぎ合わせる」を担ってきた道具

甲府の工房を訪れると、職人の作業台に所狭しと並んでいる彫金道具の数々。職人の方とやりとりをする傍ら、それらを眺めるのがひとつの楽しみになっています。用いる職人の手になじむよう柄を削ってあるハンマー、用途や番手違いで何十本と使い分けられている鑢(やすり)…機能性を追い求め、職人たちによってかたちづくられてきた道具にはある種の美しさが宿るように感じます。

Staple|collection|cobaco


奇しくも新作コレクション「Staple」で私たちが着目したのは大工職人が扱う工具のひとつ「鎹(かすがい)」でした。2つの材木をつなぎとめるために打ち込む、コの字型のくぎ。朝鮮半島から持ち込まれた木材を固定する技術で、国内でも古墳時代から用いられてきたものだと言います。古来から「つなぎ合わせる」を担ってきた道具。つなぎ合わせるものを木材から天然石と金属に置き換えてみるところから今回のコレクションははじまっています。職人が用いる道具の美しさ、そして彼らのクラフトマンシップに対する畏敬の念が「鎹(かすがい)」と出会わせてくれたのかもしれません。

[ Note ] 春になると思い出す言葉

[ Note ] 春になると思い出す言葉|cobaco

先日のアトリエオープンデーでお客様から教わったパン屋へ向かう道すがら、あたりに目をやるとちらほら桜の花が咲きはじめていました。さらに歩をすすめると、今度は沈丁花の香りが鼻をかすめます。近ごろ寒い日が続いていたせいかまだまだ冬気分だったけれど、知らないあいだに春が足元までやってきていたんですね。この季節になるといつも星野道夫がアラスカのフェアバンクス滞在中に綴ったエッセイの一節を思い出します。(なぜだか夏にではなく、春に)

「頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。(中略)人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。」(星野道夫『旅をする木』文春文庫、1999)

近ごろ「些細な日常」に振り回されて、あたらしい季節の気配にすら気づけずにいました。スマホの画面をどれだけ繰っても沈丁花の香りはしてこないし、あの場所に咲く桜の花にも出会えない。SNSから流れてくる春で済まさず、わたしに直に触れてくる春を、今年はしっかりかみ締めようと思います。

[ Note ] 小さくも大きい1mmの世界

[ Note ] 小さくも大きい1mmの世界

ジュエリーのような世界にいると「1mm」という単位は決して小さくありません。たった1mm違うだけで、繊細に見えたり、品が感じられたり、逆に粗野な印象に転んだり。大きく印象が変わってくるから不思議です。ちなみに「Gold Ring_plain(narrow)」をはじめ、cobacoの多くのリングがおよそ1mm幅。リング幅2mmとなると、わたしたちのブランドではもうマリッジリングのカテゴリになってきます。

さきほどもすこし触れましたが、今春に控えたパッケージリニューアルに向けていま準備を進めています。デザインをお願いしているデザイナーの方とやりとりをしていたら、パッケージのある部分について「12mm」がよいか、それとも「13mm」の方がよいかという話があがりました。ここでも「1mmの違い」です。一方はすっきりとした佇まいに感じられ、もう一方はバランスがよく安定感があり、やや力強さのようなものすら感じる印象。最終的に「12mm」に落ち着きました。

感覚の襞(ひだ)へと分け入るように小さな違いに目を凝らしてつぶさに観察していく。すると想像よりもはるかに豊かな世界が見えてくる。この世界に身を置かなければ、その楽しさに気づくこともなかったかもしれません。(まぁ、投げ出したくなるときもありますが…)

[ Note ] 平穏無事を祈る心

Blog|cobaco

いつもお世話になっているloji flowerさんでお迎えした正月飾りを今年もアトリエの玄関口に飾りました。しめ飾りひとつ加わるだけで心が洗われるというか、清らかな気持ちになるから不思議です。

五穀豊穣の神である年神様(としがみさま)をお迎えするために稲わらを編んでつくったしめ縄、不浄を清める意味をもつ水引、長寿を願う縁起物である若松やウラジロ、ヒカゲカズラ…よくよくひも解いてみると、ひとつのお飾りのなかに日本人が大切にしてきた文化がたくさんつまっていることが垣間見れて興味深いです。

実質2週間ほどしか飾られないにも関わらず、年始の風習としてこれまで残ってきたわけですから「平穏無事に新しい年を迎えたい」と願う気持ちはその昔から変わらないのでしょうね。年始早々大変なことが続いている今年は特に、平穏無事であることの大切さを痛感させられます。

-

この度の能登半島地震により犠牲となられた方々に深く哀悼の意を表するとともに、被災されたみなさま、また、ご家族・関係者のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。被災地域のみなさまの安全と、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

[ Note ] 文質彬彬たろうとする姿勢

cobaco

文質彬彬(ぶんしつひんぴん)

装いや立ち居振る舞い、言葉使いといった外見的な美しさと自身の内面の実質との調和がとれているさま。

-

オンラインストアリニューアルに際し、あたらしいブランドコンセプトコピーをお願いしたコピーライターの方からのご提案で出会ったのが、この言葉でした。私たちが目指しているものをすくい取ってくださった思いがして、すっかりお気に入りの言葉になっています。

批評家の吉本隆明は「現在の自分」と「なりたい自分」のあいだで交わされる問答こそが最も価値のあることなんだ、と説きました。理想の自分に近づくのにいま私はなにをすればよいのだろう?と自分自身に何度も問いかけることこそが豊かさを生むのだと。装いを変えてみたり、言動を変えてみたり、いろいろと試行錯誤するなかで、外見と中身がすこしずつ釣り合っていくわけです。その問答の往来のなかで、人はうつくしい佇まいを得るのではないでしょうか。文質彬彬である」ことが重要なのではなく、文質彬彬「たろうとする」こと、つまり、そこに至るプロセスこそが大切なのだと思うのです。

あたらしいブランドコンセプトである「うつくしい日々の予感。」の「予感」からは「文質彬彬たろうとする」姿勢を感じ取っていただけるのではないかと思います。わたしたちのジュエリーが、身につける人にとって「なりたい自分」に近づくためのひとつのきっかけになることを願いながら、これからもジュエリーづくりに取り組んでいこうと思います。