
先日、濱口竜介監督の最新作、映画『急に具合が悪くなる』を観ました。
舞台は、パリ郊外にある介護施設。人間らしいケアのあり方を模索する施設長と、ステージⅣのがんを患う日本人の演出家。ふたりの出会いを軸に、ケアの理想と人手不足や経済合理性とのせめぎ合い、病や障害、死、そして一人ひとりの個人性が社会のなかでどのように扱われているのかが描かれます。
いまという時代に生み落とされたことに、ある種の必然を感じる物語でした。
三時間を超える作品のなかには、印象に残る台詞や場面がいくつもあります。そのなかで、観終えたあともなぜか頭から離れなかった言葉がありました。
「近くで見たら、誰もまともじゃない」
物語のなかに登場する、ある演劇のタイトルです。
字幕にこの言葉が現れたとき、不意に心をつかまれました。少し乱暴にも聞こえますが、人間という生き物についての、ひとつの真理を言い当てているように感じたからです。
同じ国に暮らす人。同じ会社で働く人。同じ趣味を持つ人。私たちはさまざまな属性やラベルによって、自分や他者をひとまず理解したことにしています。
それは、複雑な世界を生きるために必要なことでもあります。出会う人すべての来歴や事情を、一から知ることはできません。ある程度の輪郭を与えることで、私たちは社会のなかに居場所を見つけ、互いに滞りなく関わっているのでしょう。
けれども、相手との距離が近くなるにつれて、その大まかな輪郭から、細部が少しずつはみ出してきます。
妙なこだわり。理解しがたい習慣。本人にしかわからない怒りや悲しみ。近づけば近づくほど、遠くからは見えなかったその人固有の歪さが、否応なく目に入ってきます。
歪さ、と書くと、どこか否定的に聞こえるかもしれません。けれど、それは「個性」と言い換えてもよいものです。そしてもちろん、歪んでいるのは相手だけではありません。
私たちは、自分の経験や価値観というレンズを通してしか、他者を見ることができません。相手を理解したつもりでいても、そこにあるのは、あくまで「私の目に映ったその人」です。
異なる歪みを持つ者どうしが、異なる角度から互いを見ている。そう考えると、人と人とが完全にわかり合うことのほうが、むしろ不思議に思えてきます。
おそらく私たちは、そのわからなさを抱えたまま共に生きるために、「普通」や「常識」や「まとも」といった共通の尺度を設けてきたのでしょう。それは、「個性的な」人間が同じ場所で暮らすための、ひとつの知恵でもあります。
けれど、その尺度を強く求めすぎれば、そこからはみ出す人が生まれます。集団の内側にいるために、自分の輪郭を無理に削っている人もいるかもしれません。そもそも、集団の内側に収まっていることと、「まとも」であることは同じではない。
互いの違いを認めることは、相手のすべてを理解することでも、何もかもを許すことでもありません。ときには境界線を引くことも必要です。
それでも、自分には理解できない部分を、すぐに間違いや欠陥として処理しない。わからないものを、わからないままに置いておく。
まずは、そこから始めるしかないように思います。
近くで見たら、誰もまともじゃない。
だからこそ、目の前の人が「まともかどうか」を測るのではなく、その人がどのような固有の輪郭を持っているのかに、目を凝らしてみる。
人をひとりの人間として扱うことは、その人を理解しきることではなく、理解できない部分を残したまま、その人の固有性を奪わずにいることなのだと思います。
互いに異なる輪郭を抱えたまま、それでも同じ世界を生きていく。その難しさのなかに、人と関わることの豊かさもまた、あるのかもしれません。
























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