
意味が隅々まで決められたものを前にすると、すこし息苦しさを覚えることがあります。
つくり手の企図が作品のすべてを覆い、受け取る側には、それを正しく読み解くことだけが求められている。そんなふうに感じられるものとは、うまく距離を縮めることができません。
反対に惹かれるのは、きちんとかたちを成しながらも、受け取る人のための余地が残されているものです。
完成しているのに、閉じていないもの。
そこには、見る人が自分の感覚を携えたまま、入っていくことのできる余白があります。
この「閉じない」ということについて考えるとき、思い浮かぶのが、李禹煥(リ・ウファン)です。
李禹煥は、1960年代末から日本で起こった「もの派」を牽引した作家であり、その理論的な支柱となった人物。彼の作品では、自然石や鉄板、ガラスといったものが、何かを表すための材料として従属するのではなく、それぞれの存在を保ったまま、互いに関係を結びます。
作品が置かれる場所。光や空気。ものとものとの距離。そして、そのあいだを歩き、立ち止まる人の身体。作品はひとつの物体のなかで完結するのではなく、それを取り巻くものとの出会いによって、そのつど異なる場を立ち上げます。
そこにある余白は、自由な解釈に委ねるための空白でも、つくりきれなかった部分でもありません。ものと空間、そして鑑賞する人が互いに働きかけるために、意識的にひらかれた場なのだと思います。
李禹煥の作品と同じように語ることはできませんが、私たちが大切にしてきた「選べる」という考え方のなかにも、「余白」と呼べるものがあります。
cobacoには、『選べる誕生石』や『選べるゴールドリング』のように、石の種類や数、ゴールドの色、リングの幅や仕上げなどを、身につける人が選べるコレクションがあります。
それは、選択肢が多いほどよい、という考えから生まれたものではありません。
私たちがかたちを整え、品質に責任を持つこと。そのうえで、その人にとって何がふさわしいかを、ブランドだけで決めてしまわないこと。身につける人を、あらかじめ出来上がった物語の受け手にしてしまわないこと。
同じデザインであっても、選ぶ石や素材によって佇まいは変わります。肌の色や装い、光の加減によっても、見え方は異なります。選んだ理由や、その後に重なる時間まで含めれば、ひとつとして同じジュエリーはありません。
人がジュエリーを選び、ジュエリーもまた、その人の装いや所作、その日の気持ちをわずかに変えていく。その静かな相互作用のなかで、私たちの想像を超えた意味や価値が生まれていきます。
つくり手が決めるところと、身につける人に委ねるところ。
そのあわいから生まれるものを、私たちのものづくりでは大切にしています。