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[ Note ] 忘れる人、忘れられる人

「今日はあなたが電話をかけてきてくれるまで、誰とも会わず、一度も言葉を発しなかったの。家の庭木たちは、私に話しかけてはくれないのよ。」

初期の認知症の兆しが見えはじめた頃、祖母が電話口でそう言いました。祖父が亡くなり、長年連れ添った犬も逝ってしまってから、祖母は静かな家にひとりで暮らしていました。両親は頻繁に通っていましたが、それでも、圧倒的な「独りの時間」が彼女を包みこんでいたのです。

人は家族や社会とのつながりを失うと、自分の存在する意味を少しずつ見失ってしまうのかもしれない。そして、身体はその痛みを生理的に回避しようとする。あるいは、心が「望んで」記憶を薄めていくのかもしれない。電話越しの祖母の声に耳を傾けながら、私はそんなことを考えていました。

そしてこの夏。両親とともに墓参りに出かけた日のことです。一日中一緒にいた父が、一度も私の名前を呼ばなかったのです。誰かに話しかけるとき、いつも相手の名前を枕詞のように添えるのが常だった父が、です。

現役時代よりひと回りもふた回りも小さくなったその背中に、私は祖母の姿を重ね合わせていました。ついに来たか——。どこかで覚悟していたはずの現実が、いざ目の前に立ち現れると、身体にまとわりついてくるようなどんよりとした重苦しさを覚え、なんとも暗澹たる気分になります。

高度経済成長のただなかを駆け抜け、仕事に人生を捧げてきた典型的な「団塊の世代」の父。退職後もしばらく働いていましたが、数年前、勤務中の転倒で足腰を悪くしてからは一線を退き、家にこもる時間が増えました。その頃からでしょうか。会話の端々に、かすかな違和感を覚えるようになったのは。

他者(父)がこれまで築いてきた記憶や時間が、少しずつ削り取られていく寂しさ。その過程をそばで追体験する痛みなのか。あるいは、実の親に“忘れられていく”私自身の悲しみなのか。いまはまだ整理がつきません。

それでも、記憶が薄れていくことは、寂しさであると同時に、やさしさでもあるのかもしれません。忘れることでしか耐えられない孤独が、きっとあるのだと思います。ただ、その名を呼びかける声は、どうか最後まで届いてほしいとも願うのです。

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