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[ Note ] 金木犀の香りは誰のもの?

金木犀の香りを見つける頃になると、折坂悠太の言葉を思い出します。

秋になると、SNSで『金木犀の香り』という言葉が目につく。書き手の情緒がクイックに再生される反面、現実にそれを嗅いだとき、自分のなかに湧き起こる実感が形骸化される。(中略)これらの表現に共通するのは、それを語る人の主体が隠される点である。自分のなかからでてきた言葉に確信が持てず、共感のツールで潰してしまうのだ(折坂悠太『藪IN』より)

誰しも「秋を感じる瞬間」があります。
風の冷たさ、夕暮れの色、空気の匂い──それらが自身のなかでふと結びつき、「ああ、秋だ」という感覚が立ち上がる。その感覚は他の誰かと共有できなくても、確かに自分自身の中に息づく秋のかたちです。

一方で、“誰しもが秋を感じるであろう”景色や香りがあります。その代表格が、金木犀の香りでしょう。この言葉(記号)を使えば、手軽に「秋の訪れ」をみんなと共有できる。けれどその便利さの裏で、「私」が感じた秋のかたちは、言葉の奥に隠れてしまう。彼が指摘する「隠された主体」とは、まさにこのことなのだと思います。

誰もが発信者になれる時代に、なぜか「主体」は後退していく。AIが整えた言葉や再生数を意識したトレンドのフレーズが画面を覆い、届け手の実感から少しずつ遠のいていく。いま私たちは「誰の言葉なのか」が見えづらい世界に生きています。

みながみな金木犀の香りで秋を感じる必要はありません。それぞれの中にある“実感を伴った秋”が大切にされる世の中であってほしい。「主体性の回復」には「多様性の受容」が不可欠だからです。cobacoというブランドも、その小さな多様性を肯定する場所でありたいと常々思っています。

そしてこうも思うのです。
理屈ではなく、誰かの身体を通って生まれた言葉は、たとえ小さくても確かな体温を帯びている。そうした言葉と出会うとき、私たちは他者の中にある「主体」と静かに触れ合うことができるのだと思うのです。それは、言葉に限らず、人が生み出すあらゆる作品に通底していることかもしれません。

ふと、星野源の『くだらないの中に』という楽曲の一節が思い出されます。

首筋の匂いがパンのよう すごいなあって讃えあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる

「首筋の匂いがパンのよう」と思ったことはないのに、その比喩がすっと身体に入ってくる。そして、その情景に人の幸せがつまっているように感じられるのです(少なくとも私にとっては)。彼の言葉には確かな“体温”があり、聴く者の心にじんわりと響きます。

届く言葉、届く作品とは、「この感覚をわかるのは私だけかもしれない」と思わせながらも、多くの人の心に触れるものなのかもしれません。

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