
横断歩道で信号が青に変わるのを待っていたときのこと。私の前を横切った70代くらいの女性4人組の1人が「いまからChatGPTに聞いてみるわ」と言いながらスマートフォンを取り出しました。他の3人も「せやせや、ちょっと聞いてみて」と軽やかな口ぶり。そのやりとりがあまりにも澱みなく自然だったことに、静かに衝撃を受けました。そこまで浸透してきているのかと。
彼女らの会話を耳にして、スマートフォンが世の中に登場した当時のことを思い出しました。電車に乗り込む度にスマートフォンを眺めている人の割合が増えていったあの時と同じように、また世の中の景色が変わるタイミングがやってきたのだと感じたのです。
それから数日後、行きつけのヘアサロンでスタイリストの方が「僕、いまめっちゃ歩きたいんですよね」と興奮気味に語り出しました。きっかけは、ソールが薄く足裏の感覚を取り戻せる“ベアフットシューズ”を履いて歩くベアフットウォーキング。裸足のように地面を感じながら歩くことで、足本来の筋肉が目覚め、姿勢も呼吸も整う――そんな身体感覚の再発見が、いま静かな広がりを見せているそうです。
AI が文章を整え、経路を提案し、時には話し相手にもなってくれる日常――便利さの裏で、私たちは「触れる・嗅ぐ・聴く・味わう・見る」という五感を、少しずつスクリーンの向こうに預けてきたのかもしれません。だからこそ、足裏に伝わる地面の温度、頬に当たる風の軌跡、遠くの鳥の声といった微細な刺激が、かけがえのない体験として戻ってきているように感じます。
人間にしかできないこと、味わえないことって何だろう。AIという”人間らしく振る舞う何か”が現れたことで、哲学者が対象とするような壮大な問いが多くの人の関心事になってくる時代がやってくるのかもしれません。最後に、ChatGPTに「人間だけが味わえるものは何か」と尋ねてみました。
ChatGPTの回答:
「AI がいくら賢くなっても、恋をして胸が高鳴ったり、怖い映画を観て手に汗をかいたりすることはできない。人間が当事者として感じ、悩み、語り合う“生きた物語”はなくならないはずだよ。むしろ AI がルーチンを担うぶん、私たちはその唯一無二の体験をいっそう大切にできる時代になるんじゃないかな。」